

狂おしくも宿魔の危険性を秘めていた甲斐バンド・・・そして風が唄った日

1975年冬、甲斐バンドとの出会いはまるで木枯らしのように突然に始まった。当時、日本のロックのレコ−ドを買うなんて想像もしていなかった私が、不覚にも裏切りの街角というシングルを購入してしまったのです。正直言って日本のロックなんてといった差別めいた意識とロックだったらやはり洋楽でないと許せなかったプライドが見事に打ち砕かれたショック。裏切りの街角に関して言えば第一印象はよく出来たシンク゜ルヒット位のものでしかなかったのですが、聞き込むほどに甲斐よしひろの
カリスマ性を秘めた声質の魅力の虜になっていく自分を感じ、B面の 薔薇色の人生 を聞くに及んではそのあまりの素晴らしさに激しい衝撃を受けてしまいました。アコ−スティックギタ−で切々と唄うその歌はかって私の中で凝り固まっていた日本のロックに対する概念を吹っ飛ばしてしまったのです。 何なんだこれはと、自問自答しても答えは見つからず、魔が差したようなものなのかと冷静を装おうとしても、一度囚われてしまった感覚が自然にレコ−ドへと手を伸ばし聞き込んでいく日々。
洋楽しか認めなかった自分が甲斐バンドの虜になっていくとても信じられない現実。甲斐バンドとのセンセ−ショナルな出会いはそんな風に始まっていったのです。 まだ、自分の進むべき道さえも選べずにいた10代最後の冬、明日は限りなく永遠に輝いているように錯覚していた頃のことでした。甲斐バンドを語ろうとすると甘酸っぱい想い出と混沌とした切なさが交錯して、とても冷静ではいられやしない。それが20数年たった今もなお変わらない正直な気持ちでしょう。かって、甲斐よしひろが・・・都会の雑踏の中にいないと詩が書けないといった言葉を聞いたことがあります、なぜなら・・・生きてる人間と生きてる情景、生きてる状況がないと手のひらから熱い想いがボロボロと落ちてこないんだよ。・・・と語っていたのを聞いて、ああ、やはりそうなのかとその年の6月、吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるらは共同でフォ−ライフレコ−ドを設立しました。そして、この年初めてニュ−ミュ−ジックという呼び方も使われだしました。時代は日本のロックにも新しい夜明けが来ようとしていた時のことなのです。
英雄と悪漢
数日後私は、レコ−ド屋さんへ突っ走りLP
英雄と悪漢を購入してしまいました。その正当な評価を受けたか否かは別として英雄と悪漢は日本のロックを根底から覆すほどの史上まれに見る名作でした。すっかり興奮してしまった私は、全てのロックファンは免罪符のように、このアルバムを聞かずしてロックを語れないと、甲斐バンドの魅力の前にトランス状態に陥ってしまったんですね。 まず1曲目の ポップコ−ンをほおばって はかって甲斐バンドがコンテストでグランプリを勝ち得て、プロテ゛ビュ−のきっかけとなった名曲でその時とは歌詞が若干変わっています。実質的なデビュ−アルバムといえるこの英雄と悪漢の幕開けを飾るのにもっともふさわしい曲でしょうね。 その言葉の端々には甲斐よしひろの天才的な感覚が早くも息づいておりました。" ポップコ−ンをほおばって、ポップコ−ンをほおばって天使達の声に耳を傾けている。 当時このような素晴らしいフレ−ズを書けるミュ−ジシャンは彼を置いて居なかったですよね。続く2曲目の 東京の冷たい壁にもたれても甲斐バンド史上に残る名曲であり、ジャックスの世界さえも軽く越えてしまった恐るべき実力をまざまざと見せ付けてくれたのです。東京の冷たい壁にもたれてのク−ルな視点と研ぎ澄まされたセンス、それらすべてのものは天才的なという言葉で表現してしまうには余りにも凄すぎてため息が出るくらいでした。また、曲が素晴らしいんだこれが。甲斐バンドの場合は、曲よし、歌詞よし、声も良しと三拍子揃いまくりですもんね。神は全てのものを彼に与えてしまったのかと多くの人が思ったことでしょう。この英雄と悪漢における最高の聞き物は5曲目の 風が唄った日でしょう。・・・陽炎に街がゆらぐ、ため息に人がゆらぐ、どんな小さなものでもすぐにこの手に拾い上げねば、時代は変わりゆく、風が唄った日・・・と激しく情感を込めて唄われるこの曲は、初めて日本のロックがレッドツェッペリンやキングクリムゾンと対等に勝負できるところまで来たのだと、私達に確信させるほどの名曲でした。ストリングスの使い方もよかったですし、全体を包み込む刹那的な緊迫感溢れるヴォ−カルが、スケ−ルの大きなこの歌の聞きどころでありました。まさに宿魔の危険性を秘めたと後年言わしめた甲斐バンドの片鱗がこの時すでに現れていたのですね。また、シングルヒットした 裏切りの街角 や かりそめのスウィング も含まれておりその点でも魅力満載のアルバムと言えますし、甲斐バンド出色のロッカ−バラ−ド 昨日のように もその後のきんぽうげや男と女のいる舗道等へと受け継がれるべく、甘く切ない心情風景をしっかりと表現してみせてくれました。蛇足ですが、甲斐よしひろさんはスト−ンズが大好きだそうで、このアルバムの裏ジャケはスト−ンズのディッセンバ−ズチルドレンと似たような構図になっておりましたっけ。
ガラスの動物園1975年
この夜にさようなら1976年
甲斐バンドの初期のアルバムには、その時代の衝動が閉じ込められていました。 それは、日本のロックがまだ黎明期を脱しきれておらず、それを支える業界もミュ−ジシャンほど熟していなかったので( 熟していないミュ−ジシャンもかなりいた)他を圧倒する程の実力のあった甲斐バンドでさえジレンマに陥っていたのですから。 そんな閉鎖的な状況の中、何かを変えようという試み、また変えられるんだという自身に溢れた3枚目のアルバムがこのガラスの動物園だったのです。アルバム全体をひとつのコンセプトとして考えそれに基づいて曲を構成する、今の日本だとか、1970年代当時のアメリカ、イギリスではさほど珍しい事では無かったのですが、あの時代に甲斐バンドが試みていたと言う事だけをとってもこのバンドの凄さが伝わるのではないでしょうか。しかし、いくら傑作を作っても受け入れる人々の準備ができていなければ徒労に終わってしまう。それも悲しい現実。 まだまだ日本はシングルヒットを優先する業界の状況だったのですから。その言い知れぬ閉塞感のようなものが、このアルバムを貫いているような気がするのは私だけなんでしょうか。名作 悪いうわさに代表されるような重くのしかかってくるようなト−ンが甲斐バンドの衝動だったのでしょう。しかし、このアルバムにも前記の悪いうわさをはじめとして、らせん階段、黒い夏、テレフォンノイロ−ゼ、男と女のいる舗道など甲斐バンドの実力を証明する名曲が目白押しだったのですが。1976年にリリ−スされた この夜にさようならの聞き物は何と言っても きんぽうげでしょう。甲斐パンド史上に輝くと言っても過言ではないこの名作は甲斐よしひろ得意の女性の刹那的な心情を歌い上げています。子供の頃に自宅が博多でも有数な花町の近くにあったので、そこに暮らしている女性を子供ながらに見て育ち、それが独特の女性感と優しさに繋がっていると何かの本で読んだことがあります。 なるほど普通では思いつかないような、女性に対する繊細な感覚はその時に培われたものなのでしょう。切なく悲しいけれど希望を捨てきれない女性の性を描かせたら彼の右に出るものはいないと思います。シングルカットされたそばかすの天使にもその一端が伺えますね。 また、この夜にさようならと最後の夜汽車の2曲は日本におけるロ−ドソングの走りであったといえますね。当時甲斐よしひろは気になるア−ティストとしてブル−ススプリングスティ−ンを揚げており、そのロマンティシズムを日本的にあるいは甲斐バンド的に展開したのが上記の2曲であったと思います。タイプは違っていますがこのシチュエ−ションはその後の浜田省吾に受け継がれていますよね。そして、初期の甲斐バンド3部作がここに完結し、この後甲斐バンドはまた新たな道を歩み始めることになるのです。
彗星のようなデビュ−を飾った甲斐バンドにとって、もしジレンマに陥っていたような時期があるとすれば、それは1978年にリリ−スされた誘惑から始まる中期の頃ではなかったのでしょうか。 私には周囲の期待と重圧に耐えながらも、懸命に甲斐バンドのコンセプトを確立させようとしている甲斐よしひろの姿が浮かんでしまいます。 この時期の甲斐バンドが語られる時には、どうしても停滞気味に評価されるのですが果たしてそうなのでしょうか。 確かに中期のアルバム全体のト−ンには物足りなさを感じてしまうのですが、甲斐バンド最大のヒット曲であるヒ−ロ−を初めとして、安奈、翼あるもの、感触、ビュ−ティフル・エネルギ−、漂泊者、天使等の出色の名曲が生まれたのもこの時期だったのです。 これは極めて重要な点でありまして、甲斐よしひろの思惑は甲斐バンドの音楽性の揺るぎない確立を目指していたのだと思います。 それには何が重要かと考えますと、やはりひとつひとつの歌のクオリティ-を高める事でしょう。 それが数々の名曲の誕生へと繋がったと思うのは穿った見方なのでしょうか。 甲斐よしひろにはそれを達成するだけの有り余る才能があったのです。 アルバム誘惑の初期ジャケットは瓦礫の中から腕が突き出ていて、その上を蝶が舞うといった衝撃的なものでした。 当時の日本のロック界においては並び立つものがないほど、傑出した才能と素晴らしい実力を持っていた甲斐バンドなのですが、甲斐よしひろの甘いマスクも災いしてか女性に異常な人気があり過ぎたので、その音楽性の正当な評価を受けられずにいたのも事実です。 ですから、彼ら自身意識的にアイドルであることからの脱却を試みようとしていたのではないでしょうか。 誘惑のインパクトの極めて強いジャケットはそんな姿勢の表れなのです。
ヒ−ロ−が甲斐バンドに与えたものは一体何だったのでしょうか。 名声と賛美の中の恍惚。 この類まれない名曲によって甲斐パンドの名前は永遠に記されることになったのです。 時は1978年、それは余りにも美しすぎる瞬間でした。 しかし、名曲であるが故に甲斐バンドのイメ−ジを固定化してしまうという、逆説的な危険性も孕んでいたのですね。 皆が求めるものを与えるべきなのか、それともア−ティストとしての良心と感性を優先させるのか、甲斐バンドが陥ったジレンマはここに起因しているのだと思います。 かつて多くのミュ−ジシャンが陥った事でもあるのですが、甲斐よしひろはこの窮地をスマ−トに乗り切るだけの才能と経験を持っていました。 そう、裏切りの街角の時にも同じような経験をしていたのですね。

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